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2012年2月28日火曜日

もうひと勝負やりますか。

任地での活動も2週間を切ってくると、やはり色んなことが美化されてくるもんだとしみじみ感じていたここ最近。
しかし、そんなことを覆す出来事があった。

今日は新しく訪問する学校へ行く日だった。
タクシーでしか行けないような遠い場所なので、わざわざ送迎の車を回してくれるとのこと。
約束の9時になっても、9時半になっても来ないので電話をいれたら
「車が壊れてしまったんだ。何とかするから。」とのことで、
「何とかできるわけないな。というか車自体用意できてないな。」と判断し、
近くでチャイを飲んで「今日は何をしようかなぁ。」と作戦を練る。

もちろん、ここまでのことは想定内。


昨日の朝のこと。
ジョンの村に行く前に配属先に顔を出したらめずらしく県保健事務所長(DMOH)とカウンターパートが
揃っていたので、もうすぐケニアを去ることを告げたところ、「何て早いんだ」と、それはそれは驚かれた。
で、いきなり「活動のフィードバック(振り返り)をしよう」となったので、昨夜、速攻作成した資料を持って事務所にそのまま行くことにした。

今年になって初めて顔を見たDMOHは以前は隣に住んでいて、理解のある男だと思っている。

まずはそのDMOHとフィードバックを行い、1年7カ月かけて自分の目を通して見てきたこと、
やってきた活動を映像でまとめたものを見せながら解説した。
普段、本当に別々にいるためこの活動内容にはかなりびっくりしていた。

そして口頭で、約2年間ナイバシャにいて感じた全てのことをかなりはっきりと伝えた。

オブラートに包み込む必要はない。これは最後のチャンス。
目の前にいる人物こそ、ナイバシャの保健業界に一番影響力を与えられる人物なのだから。

「会議室やセミナーから一歩外に出て、実際の現場に足を運んで住民のニーズをみてほしい。」
というようなこちらの想いも伝わっていたようだ。

その後、
DMOH:「次のボランティアはいつ来てくれるんだ?」
わたし:「この事務所にボランティアはいらないと思うけど。」
DMOH:「この事務所にはボランティアが必要なのに。」
わたし:「じゃあ、例えば今日だったら何をすればいいの?」
DNOH:「じゃあMIHARUがここにあと2年間残ればいい。今日からの2年間は俺はお前を色んなところに連れていくぞ。」

はははは・・・・・。
(そんなことしたら間違いなく、日本社会で再起不能になるわ。)と笑って終了。


そして、次にカウンターパートとのフィードバック。
赴任当初にタイムスリップしたかのような残念さと久しぶりにぶち当たってしまった。

私が見てきた事実は全て全否定。
どんな状況も「現状のままで問題はない。私たちは改善している。」と言い切る。

最近、コミュニティや学校で積極的で情熱的な人々に囲まれていたため、
その人々とのギャップがすごく、自分でも結構ショックだった。

そして最後にはなんと活動への総括コメントを断固拒否。
想像してください。2人の顔は取りあえず終始笑っているのです。だから、逆になんか怖い・・・。
色んなものを吸い取られる気がするのは気のせいか・・・。

「ゼロの人間をイチに変えるより、100の人間を200に引き上げる活動のほうが
周囲に大きな影響力を与えられると思う。そこに力を注ぎたい。
期間が問題ではない。他人のゼロをイチに変えるなんてのは、こちらの奢りだし、
日本でも出来なかったことを、さもケニアだったら出来ると思ってしまってないか?
と自分に何度も問いました。」

と、最後のHAPAで話していたのだが、
その時すでにカウンターパートのことは過去の人となりすっかり忘れてたけど、
また色んなことが蘇ってきてしまった瞬間だった。


私のここでの活動は一体何だったのだろうか。
あー。

本来ならナイバシャを去る直前の、3月11日か12日にやろうと思っていた配属先とのフィードバック。
それが急に本日行うことになって、去るまでの猶予がちょっと出来た。

これはなにか、神の思し召しだろうか・・・、もうひと勝負してこいよと。

行くべきか、行かぬべきか・・・。うーん。



布ナプキンファイナル。

この1週間でナイバシャでのコミュニティと小学校の活動は終了する。

今日はジョンに頼まれて、今度はジョンの村の女性グループに向けて「布ナプキン伝授会」を行った。
前回、干乾びそうになったかなり遠いジョンの村への訪問、今回で3度目となる。

地元の学校訪問以来、俄然やる気のジョンに、
「出来るだけ多くのメンバーを呼んでおいてほしい。」
「洋服屋さんとミシンも準備しておいてね。」
と、ちょっと難易度の高い注文を出しておいた。

マタツを乗り継ぎ、ようやく教会にたどりつくと、そこには結構信じられない光景が広がっていた。

トタン屋根の教会
女性グループに加え、以前訪問した小学校の先生も2名同席。
しかも、ミシンと共に洋服屋さんも来てくれている。

このママたちは英語が全く通じない。
私が話した言葉をすぐにジョンがキクユ語に翻訳する。
まずは洋服屋さんと一緒に説明しながら一通りの手順を見てもらい、
その後、みんなで実際に作ってみた。

紹介したのは、最新バージョンの布ナプキン。
ベースに水を通さない素材を使用したもの。
これにナプキン専用に作ったライナーを挟んだり、
専用のライナーがない場合でもベースさえあればどんな布切れでも挟みこむことが出来る。





洋服屋さんも色んなアドバイスをしてくれて、みんなとても吸収が早く、
途中にケニアの栄養満点のローカルな飲み物「ポリッジ」もふるまってくれて、
ほっこりしながら作業を進めた。


途中に久々の激しい長雨が降り、トタンの教会は爆音が鳴り響いたが、
2時間ほどの間なんやかんやと話しつつ、雨の止むのを夕方まで待った。

「あなたの話を息子から聞いたわよ。ムズングが学校にきて体操を一緒にしたって。」
こんな話も何人かのママから聞くことが出来て、うれしかった。

ママたちは今回の活動を地域の小学校のために継続していってくれるらしい。
ジョンはそのためのプロポーザルをとってくるとやる気になっている。
このプロジェクト名は「MIHARUプロジェクト」とジョンによって勝手に命名された。
名前はなんでもいいし、続くかどうかも定かではないが、何かのきっかけになればありがたい。

雨が止んだので帰路につく。
マタツに乗るまでの長い帰り道を歩いていると
同じく雨が止むのを待っていた多くの生徒と一緒になった。

「MIHARU!コンニチハ!」
「スゴーイ!」
お辞儀をしながら「アリガトウ!」

教えた日本語、覚えてくれてたんやなぁ。

村のママ達からも「よくこんな村まで来てくれた」と、ものすごい歓迎と感謝を受けた。
こういう時、村に自分と肌の色の違う外国人が来たということは、
彼らの記憶の中に強く残ることなんだと再認識する。

標高が高いため雨が降ると一気に冷え込むナイバシャ。
半袖一枚だった私にママが雨の中わざわざ家まで上着と帽子を取りに行って貸してくれた。

「誰にも会わんし、いいや~」とありがたく着て帰ったら、
案の定、後輩隊員と同期隊員と日本から来たその友達とご飯屋さんでバッタリ・・・。
大爆笑されて本日終了。



ただいまー。


2012年2月26日日曜日

日本語弁論大会。

昨今、約1,000名程度のケニア人が日本語を学んでいるらしい。
土曜日にその人々たちによる日本語弁論大会がケニア日本大使館で開催されるということで観覧に行ってきた。


同じ発表者でも学習期間は様々で、中には日本に留学していた人もいてその語学力も素晴らしかった。
今回2位に輝いたケニアッタ大学の女性は流れるような日本語で身ぶり手ぶりと笑いを交えて、
日本での「一番驚いた経験」を紹介してくれた。
≪日本に1年間留学して、1年半日本語の勉強をしている≫とここまでになるんだなぁ。
と感心していたが、
よく考えればそれ以上の環境となる≪ケニアで1年9カ月生活している私。≫ということに気付き、
スワヒリ語の勉強、語学研修の2カ月で終わったしな。という揺るがない事実にまた目を向けることになった。

こうして協力隊にきていると、同じ日本人でも語学力をひとつの能力として使いこなし
色んな世界に挑戦していく多くの人たちと出会う。
「海外留学経験者はみんな英語が達者だ」とあたりまえに思いがちだけど、
母国語でない言語の習得は相当な努力の上にしか成り立たないということをまた当然のことながら感じる。


そしてこの大会の面白さは、その発表者の語学力そのものよりも弁論内容にあった。
落ち着いたゾマホンのような発表者25名が
「好きな日本の言葉」「日本人に伝えたいケニアの○○」「今までで一番驚いたこと」
の3つのテーマに分かれてそれぞれの想いを日本語で披露する。

”9時の講義に学生は9時半に集まります。そして、先生も9時半にきます。”
と元気にケニアの生活を紹介する女性。
「自分を乗せた飛行機が本当に空中に浮いたこと」に驚いた人がいたり、
「8歳のクリスマス時に初めて下着の存在を知った」学生がいたり、
「好きな日本の言葉はトリニクです」という若者がいたり、
一問一答のコーナーで、「賃金はスズメノナミダ程ですが、頑張っています。」と
アドリブで返せる学生もいたりで非常に楽しませてもらった。

なかでも今回優勝に輝いた女性のスピーチはとても印象に残った。
好きな日本の言葉「ありがとう」「すいません」にまつわる多くのエピソードは素晴らしいものだった。

彼女が日本に3年間住んで、どの場面でもつねに登場した「ありがとう」「すいません」の言葉。

どの店に行っても店員さんはお辞儀をしながら「ありがとう」、時間に遅れてもないのに人を待たせると「すいません」、マッサージの勉強のために留学をしていた彼女は仕事として施術しているのに、お金をいただいてるお客さんから毎回「ありがとう」といわれたことにも驚いたと話してくれた。


ケニアではお店で「いらっしゃいませ」とも「ありがとうございました」ともいわれることはない。

でも実際にこの言葉を言われたときのうれしかった経験から、
彼女はケニアに帰った今も積極的にこの言葉を使っていると話してくれた。


スピーチ後の一問一答。

質問者「あなたがケニアで積極的に“ありがとう”“すいません”という言葉を使っていることで、
     周囲のケニア人の反応はどうですか?」

発表者「(日本人的な反応で)う~ん・・・・・、
      たぶん彼らはまったく気づいてないと思います。そして何も感じないと思いますけど。」

質問者の期待していたものをそこに居合わせた日本人も同じく期待していたが、
それとは違う「ケニア人がするであろう本当の反応」に会場は大爆笑で包まれた。

会場に居合わせた“ケニアで過ごしている日本人たち”が共有する同じ感覚の中の「あるある」という部分を
ケニア人の彼女につつかれたことがとても面白かった。

質問者「では逆に、あなたが日本に伝えたいスワヒリ語の言葉は何ですか?」

発表者「え~っと、特にないですかねぇ。う~ん・・・・、
      あ、“Pole Pole”(のんびりゆっくり) っていうのは伝えたいかもしれません。
      いつも日本人はみんな急ぎすきていると感じたので。」



言語を学ぶということはその国の文化を知るということだとよく言われる。

今回の日本語弁論大会では日本語を学ぶケニア人の彼らの中に、
日本人ならではの感覚を多く伺い知れたことが本当に面白かった。


また、ケニアのナイロビにある「日本大使館」は、そこだけが日本のような空間で、
完璧なタイムマネジメントの中に久しぶりに身を置き、
3週間後に迫った日本への帰国に向けて少し身の引きしまる思いがした。


エンターティメント部門では多くの隊員の配属先の生徒たちが
パフォーマンスを披露。
どの学校の生徒たちもとてもいい表情で
日本語の歌を堂々と発表していた。
選曲も素晴らしく、どの歌詞も胸にじーんときた。

2012年2月24日金曜日

乗り物がない時は。

せっかく始めた美白計画が先週の炎天下でのキャンペーンによって、フリダシ以下に戻ってしまった。

その日焼けといつからの疲れなのかもはやわからないものを引きずりながら
とりあえず1日に1校の学校巡回を続けている。
昨日はJICAの調整員さんがわざわざ授業を見に来てくれた。
2度目3度目の学校が続いた今週だったが、今日は以前紹介した校長会がきっかけとなって初めて訪問する学校にいった。

マタツ乗り場から学校到着までの40分間に3人のケニア人に場所を聞いて案内してもらい
「ここで間違いない!」と満を持して到着した学校は違う学校だった。

みんな普通に知った顔をして教えてくれるもんだから、しかも3人とも同じ場所を指し示したもんだから、信じてしまった。

不便な場所で降りてしまっているので、そういう時は迷わずヒッチハイク。
実はこの学校巡回でのヒッチハイク率は結構高い。
でないと学校にたどりつけない。
乗っていいか悪いかは、「ザ・雰囲気」で判断。

その地域はナイバシャのはずれでマサイ族の住むナロクという地域に近い所。
マサイ族も多く住んでいる。

行きのマタツでのひとコマ。
布を巻いているマサイ族もいれば、普段着のマサイ族もいます。

「ここの生徒たちはキクユ族とマサイ族がどれくらいの割合でいますか?」
との質問に、

「2007年の大統領選挙時の暴動で家を焼かれた人々が移り住んだ地域なので、
ここの生徒はみんなキクユ族だよ。」
と教えてもらった。

1,000以上の死者を出した暴動で標的となったキクユ族、両親がいない生徒も多くいる。
たった4年前のその出来事。

彼らは同じ人間の何を目にし、それらはどのような記憶として彼らの心に刻まれているのだろうか。

使用後は毎回、厳重に布に包んで保管している。














到着後すぐに、校長先生が自慢げにコンピューター室をみせてくれた。

「マダム、あと5台欲しいんだけど、何とかできないか?」

いいそうな顔してたけど、やっぱり言ったよね。タヌキ顔の校長先生。



この時期滅多に降らない雨がその時だけ降ったので、今日は「ラジオ体操」は中止して、
「じゃんけん」を紹介した。


無事終了して、帰路に就く。
相変わらずの炎天下で喉カラカラ、メインロードに30分立ち尽くすもマタツが通らない。


このメインロードはナイロビと地方都市ナクルを結ぶ主要道路で、大型トラックの交通量がとても多い。

「ならば、よし。」と、手を挙げると30秒もしないうちに2台のトラックが止まってくれた。

このスピード感こそ、ムレンボなムズング(白人)効果。

仕事への情熱を語るトラック野郎のミッシェル37歳・妻子(2人)持ち。





















ナクルの大学にソーダを運んでいる途中ということで、
「スプライトを愛している」といったら「じゃあ。飲めよ!」と気前よくくれた。
間違いなく商品に手をつけてるけど。
しかも大きいサイズ。ラッキ~!いただきま~す。

ジャガーかと思った。
フロントには味のあるヒョウがくっつけられてこっちを見ていた。

帰りに寄ったスーパーナイバスで久々にバイロンとダニエルのコンビに出くわした。

日本の2人の姪っ子に送る帽子をダニエルが手に取る。
「MIHARU、黄色の帽子はやめたほうがいい。なぜなら汚れが目立つからだ。」
とアドバイスをもらう。

明日はどうやら近隣の学校の生徒が大勢集まる「チルドレンフェスティバル」なるものが教会で開催されるらしい。

週末に用事があるため朝からナイロビにいく予定だったが、
バイロンやダニエルたちと絡むのも最後だろうということで顔を出すことにした。

どんな1日になるか、これまた楽しみ。


2012年2月23日木曜日

フライデーナイトフィーバー。

「決戦の金曜日」夜の舞台は、ケニアッタ大学へ再び。

入り口に掲示してある巨大バナー。

モバイル(移動式)VCTには人目につきにくい夜の時間帯に行う「ムーンライトVCT」と呼ばれるものがある。

その夜、それをケニアッタ大学で実施するということでまずはその宣伝活動のためと、
今回のVCTキャンペーンのクライマックスを飾る目玉イベントの
「ミス・ステイタス」と「ミスター・ステイタス」のコンテストがあって大いに盛り上がるから絶対来て欲しいんだ!!
と、例の「コンドームの達人」のおっちゃんに強く誘われていたために行ってきた。
おっちゃんはそこでコンドームの使用法デモンストレーションをやるらしいとのこと。

広すぎるキャンパスのどこでイベントがあるのかもわからず、そんな雰囲気もうかがい知れず、
頼みの「コンドームの達人」には全く電話つながらず、
7時にイベント開始と聞いていたが8時を過ぎてもイベントの存在を知る学生に一人も会えず、

「え??あー、そういうことだった?そっちだったかぁ。ナイほうのパターンね。うんうん。
ま、ここケニアだし~。学食のバーガーおいしかったね~。食べれただけでも満足だね~。
はははハハハハハ!!じゃ、つーわけで、かいさーーーーーん。」

と、若干強引に誘ってきてしまった同期隊員5名にいつ切り出そうかと考え始めたその時、
その夜開催されていた小規模の別の歌謡イベントを発見。
しゃーなし、そこで踊って帰ろうかと、イベント担当者に交渉しに行く。

私   :「HIV/AIDSのキャンペーンを兼ねてるんだけど踊らせてくれない?」

担当者:「あーだったらこのイベントじゃなくて、あっちだね。」

あっちって、どっっち!!!?
心底湧き上がる歓喜の叫びだった。

これに気付けないほどの広いキャンパス。
これ、結構でかくね?
巨大舞台、ど~ん、と出現。
帰り際に一瞬みたコンテスト出場者の入場シーン。
ランウェイもちゃんと設置されている。


結局、8時からのコンテストは10時前になっても始まらず、

「コンドームの達人」は音信不通のまま最後まで現れなかったのだが、

わりかし、それ自体は実際どうでもよく。


もちろん、ここでもビラ配り。
コンドマスター(ヒロキ隊員)と
安定感抜群の愛知県コンビ!
コンドマスターと
ダンスマスター(アベダス)
夢の共演。

そろそろ踊らせていただこうかしら。
おっしゃ~、一発かましたるで~!!
おなじみのポーズからの~
コンドマスター君(ヒロキ隊員)も激しくダンシング~!















色んな勘違いを引き起こす超まぶしいライト。
「あれ?私アイドルだったっけ?」的な。
とびっきりの笑顔、でちゃってますから。
フライデーナイトフィーバー中。
なんと!ヒロキコンドマスター君は話せます。鼻で。(笑)
ミッキーみたいじゃなく、明らかなヒロキ隊員の通常時の声で
これは手話の説明中、指さしのサインは「勃起」を意味しています。 


見た目は本当におしゃれで洗練されていてかっこいいケニアッタ大学の学生たち。

しかし、ケニアン仕込みのタイムマネジメント能力は残念なくらい他と同じでグダグダ感満載。

おかげで発生した膨大な待ち時間を利用して大舞台でいっぱい宣伝&ダンス(練習を含めて2回も)をすることができた。

LVCTがスポンサーについているため、司会者はHIV/AIDSやVCTを含む言葉を連呼していた。

そうして私たちはケニアッタ大学を後にした。最終日の土曜日に続く・・・。

その舞台はまるで、SMAPのコンサートみたいでした。



行ったことないけど。



背中をポポ~ンっと。




文字通り「決戦は金曜日」となった17日はHAPAの翌日ということもあり、

選りすぐりのベッピンさんたちがビラ配りの手伝いに来てくれた。


バレンタインもすでに終わった後ということで

日本人らしくちゃんとビラも作り直した。

(ケニアではメリークリスマスやハッピーニューイヤーなどの
デコレーションなどを余裕で1カ月以上放置して掲示し続ける)

意外にも検査が無料であることを知らない人も多く、

VCTテントの真ん前で「どこでやってるの?」と聞かれることもあったため、

その辺を強調して刷りなおした。


この日準備したビラ5,600枚。

金曜日のランチの時間帯の短期集中決戦!

配って。
ビジネスマンもいっぱい通ります。
ケニア男性のシャツの着こなしは本当にスマート!
パリッと、シャキッと。

こっちでも、配って。
炎天下の中、幸せを呼ぶ奇跡の麦わら帽子も大活躍。

こっちでも配って。
暇そうな男性グループは行く確率高し。
「あんた、ステイタス知ってるの?暇ならちょっと寄ってかない?」
こっちでも配って。

新隊員のアジアンビューティーさんも手伝いにきてくれて大助かり。
まだ先進国の雰囲気が漂っています。

こっちでも配って。
こちらは(ハナっから)ベテランの風格、古株隊員。
デンジャラス都市ナイロビの渋滞までも味方につけたこの戦法。

 こんな風にも配って。





その結果、

この日はカップルもしくは、

今まで検査を一度も受けたことがない人に

限定したにも関わらず、


5つのVCTに入りきらず人があふれ行列に。

そして、そのほとんどが男性。

ベッピン度合いは海を越えると魅力3割増の模様。

ちゃんと列に並ばせ、流暢なトークで和ませるなっちゃん隊員。
みんなうれしそう。



外国人だからその敷居を低くしたのかもしれないし、

外国人だからいつもは持たない興味を引いたのかもしれないし、

ただ単にめっちゃ暇だったからかもしれないし、

最近の性行動に不安要素があったからかもしれない。


正誤性はともかく、幼いころから飽きるほど

繰り返し刷り込まれているHIV情報の数々。









彼らが今まで受けたことなかった検査を

その日受けた理由は

どこにあったのか。






その理由は意外と単純で、

笑顔で背中をポンっと押されただけのことなのかもしれないな。


と、思った促進活動だった。



そして、「決戦の金曜日」は夜の部へ突入・・・。

2012年2月22日水曜日

職種:エイズ対策。

16日はHAPA(HIV Aids Progress Assembry)の会議に参加した。

ケニアにいるエイズ対策関連隊員(現在は13名)が一堂に会して、
自分たちの興味のある内容について勉強会を行ったり、外部に発信したりする機会で、
今までこのブログではエイズ会議として紹介してきた。

その理由はHAPAが何の頭文字だったのかをいちいち調べるのが面倒だったことに他ない。
今回は最後ということで書き記しておこうという意味で・・・。

22年度1次隊である私たちの派遣後に第1回として始まったHAPAは、
その回ごとに委員長・副委員長を隊次毎に務め、その内容も開催時期も隊員主導で決めることができ、
3~4カ月に1回の開催を経て、今回で第7回目を迎えた。

大統領選暴動後に大型派遣されたケニアのエイズ対策関連は当初19名。

ひとつの国にエイズ対策隊員が19名もいる状態というのは、おそらく他国にはないと思う。

今の時期は次回大統領選後に向けて、大型派遣の隊員要請が一気に出ている時期であるが、
そのバタバタとした動きをみていると数の多さで要請そのものへのリサーチが不足していることは否めない。
この期に及んで悲観的になどならないが、
3~4年ほど前にそうやって自分の要請も出てきたんだなぁとしみじみ思う。

「そんなエイズ対策隊員の活動内容って何?」

そう聞かれて一言で表現できる言葉があったら是非教えて欲しい。

私の記憶では確か要請票に記載されていた内容はコピペでみんな統一されていたのだが・・・、
その実際の活動はというと、HIV/AIDSに特化せずに、活動場所・対象・内容は多岐に渡りまくっていて、
第1回のHAPAで初めて先輩隊員14名の活動発表を聞いた時は、
「とにかく何でもやってみろってことやなぁ。」と、この職種の厳しさと可能性の広さを感じた。


「大人数を活かしてケニアのHIV/AIDS界にインパクトをもたせよう。」と、
同じ想いを共有できるHAPAの仲間たちと仕掛けてきたことは、
変化を起こすという点でとてもエネルギーのいることで、
結局その効果があったのかは定かではないけれど、
それでもタネをまかずには前に進めんやんという気持ちでやってきた。

そして「やってみたんだから、それでいいじゃん」と楽観的なままでは、
見るべきものを見失うことがわかっているメンバーのおかげで
HAPAではフィードバックする機会も多くあり、自分にとってはとても貴重な場所だった。



今までHAPAのメンバーや同期隊員で議論してきたことが、
ケニアのNASCOP(エイズ国家対策)の専門家が挙げる課題と幾度もかぶる。

そんな時、同じ時代に同じ国にいて同じ分野で自分が模索しながらたどってきた道筋は
そこそこイイ線いってたのかなぁ、と感じたり。
そこまできてようやく自分の活動に少し安心感がもてるというほど、方向性が見えない職種でもある。


今回のHAPAとして有意義だった点は、HAPA資料集なるものを形に出来たこと。

今までメンバーが作成・使用した多くの資料やマテリアルがたーっぷり詰まっている。

現地に入るとその場の感覚が最も大事だけど、国内訓練所にいるときだったら是非欲しかった資料集。

ということで、ケニアの後輩隊員だけでなく、世界に派遣されるエイズ対策隊員の目の触れるところにと
二本松と駒ケ根のJICA訓練所にも送ることになった。

少ない教材を使いまわしていたエイズ対策の英語担当のジョンもきっと喜んでくれるだろう。



ジョン元気かな?

「便りのないのはよい便り」ってことわざ知ってるかな?

私は元気です。

HAPA懇親会はみんなが大好きなエチオピア料理。
帰国隊員は最後に一言ずつ。

私の列、4人全員目をつぶっている奇跡の一枚。

両脇の2人寝てないよね!?私話してますけど~。



唾液は感染源ですか?

“HIVの感染源は何ですか?”

「血液・唾液・精液・膣分泌液・母乳」



日頃、学校巡回をしていると100%の確率で子供たちは感染源の一つとして「唾液」をあげてくる。

結論からいうと、唾液は感染源ではない。










「キスは感染する?」との質問には、ほとんどの生徒がNOと答えるが、

「んじゃ、ディープキスは?」と質問すると、ほぼ全員がYESに手を挙げる。



実際には3~5リットルの唾液に加え、

口腔内が何らかの炎症を起こしていないとHIV感染は起こらない。


この説明を付け加えると、授業後に教員から「本当に唾液は感染源にはならないのか?」と質問を受けることもある。


教科書を持ってきて「ほらここに唾液も危険って書いてあるだろう?」と。

確かにそう書いてある。

怖いのは間違った知識がさらなる偏見や差別を生みだしてしまうこと。






今回の会議でケニア国家エイズ対策にかかわっているJICA専門家から今後の動向を聞くことができた。

「新規感染者を増やさないことがまず第一。」


そう聞くと私の場合、

職業柄なのか真っ先に「学校での予防教育の充実」が浮かぶ。



そこで、

「小学校で使われている教科書のエイズの部分は保健省などの専門家の監修が入ってますか?」

と以前から抱いていた質問をした。



教科書のエイズの部分にはエイズ国家対策は関与していないし、

学校エイズ教育のための教員の研修もない。

そもそも教育は教育省の管轄だからということだった。



これは実際に現場にいる隊員にはよくわかる話で、

任地の保健省、公衆衛生省、教育省、ユース&スポーツ省、ジェンダー省、などなど

細分化している省庁はまったく目的も情報も共有していないことがよくわかるし、

お互いのことに全く協力的でない。


その橋渡しのために何も外国からきたボランティアがその間を奔走しなくとも、

お偉いさんたちの会議一つで済んでしまうことはたーーっくさんある。



NGOも保健省もHIV教育となると学校巡回のための資金不足、

ファシリテーターの人材育成トレーニングの実施などに頭を抱える。



小学校の就学率が90%を超えるケニア。

しかし、予防対策の中に、不思議なくらい学校教育が入ってこないのである。

教師こそ子供たちにとって最高のファシリテーターであることに気付いていない。



HAPAでの専門家との話し合いの感触として、その取り組みはまだまだ先のように思えたが、

活動の最後には配属先に提案してみようと思う。




*おまけ*

ケニアの某NGOが発行しているエイズ教育の指導書には、

HIV感染における最も危険な行為の中に「外国人とのセックス」と書かれている。

アフリカにいる場合の外国人とは、だれのことを指すのだろうか。










バレンタインのプレゼント。

バレンタインVCT企画の14日の当日は任地から再びナイロビに出発した。

場所はケニア最高学府ナイロビ大学キャンパス。
この日だけの特別VCT(HIV検査)ということで、ケニヤッタ大学での出ごたえを十分感じたまま
取りあえず待ち合わせ場所のナイロビタウン内の「Bomb Blast」という場所へ。

左から5つのVCTテントと右のとんがりテントは他のNGOが主催する献血用。
そこは1998年アメリカ大使館爆破事件のあった場所で、今はイベント広場になっている場所。
ここは5つものVCTルームを設置している今回のバレンタインキャンペーンのメイン会場。

待っている間はそこでとにかくビラ配り。
ビラを配り続けて2時間後・・・、ようやくナイロビ大学行きの車が担当者と共に到着。
~遅れたことより、来た感動。ここはケニアです。~

LVCTのイベント担当ジョイス(左)と
いつも一緒に宣伝した聴覚障害を持つ陽気なおっちゃん。
私がめっちゃ話せると思ったのか、
検査への質問がある人をどしどし私のところに連れてきてくれます。
手持ちのビラは底をついていたので、気合いを入れて2,400枚(A4×300枚)のビラを印刷しナイロビ大学へ。



ナイロビ大学で配ったビラの数。


3枚・・・・。
どーん。

しかも、もうすでにVCTに向かっていた3人組の男子学生に強引に渡した。

昼過ぎに到着したナイロビ大学にはだだっ広いグランドの片隅にポツンとテントが3つ設置されており、
プライバシー保護の観点からみると完璧かもしれないが、
逆にそっち方向に進むだけで目立つでしょうよ。といわんばかりのポツリさで、
人影がほとんどなかった。何だったのでしょう。

バレンタイン当日に出来るだけ多くの人々にVCT促進がしたいということもあり、
到着して3分後にはナイロビ大学を出て先程までの場所に戻ることを決めた。

当初はここでコンドマスター君を一人で着て活動する予定をしていたことを思うと、
うっかり事務所に忘れてきてくれた担当者に感謝したい気持ちになったくらいだった。

そして、車を再びタウンに回してもらいつつ、
「資金力のあるNGOっていうのは楽でいいな~」と感じつつ、
元の場所に戻り、残り2,397枚のビラを配り終えた。


ビラ配布場所平日5時頃の様子。























ケニアにはそれほどバレンタイン文化は浸透していないことを実感しながらも、
1~2割の人々は明らかにバレンタイン仕様のおしゃれを楽しんでいる。

男女問わず街角で花を買う人々、赤でおしゃれして恋人と歩く人々に
負けじとテンションを上げながら「ハッピーバレンタイン!」とビラを渡す。

日本でビラを受け取ることは稀だが、配ってるのが珍しい日本人だからなのか、
私の笑顔が輝いているからなのか(?)、9割5分の人々はビラを受け取ってくれる。

カップルが多かったその日、5時以降のテントはカップルで満席。
それを確かめにいった時、タイミングがよかったのかVCTルーム内にいた全てのカップルの手に
自分の配ったビラが握られていた時は鳥肌が立った。

その日のこの会場で分かった陽性者は2名だった。
身に覚えのなかった陽性者。ケニアの陽性者の84%がこのパターン。