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2010年10月28日木曜日

ローラ。

今日は早朝から、イギリスの大学教授ローラのプレゼンテーションを聴きにいった。
病院内のスタッフが全員集められ、毎週水曜日8時から行われている勉強会。
ローラに教えてもらうまで、存在すら知らなかったこの勉強会。

本日の内容は、ローラがうちの病院でHIV陽性の妊産婦について1年半の間、追跡調査し続けた研究成果の発表である。簡単にいうと、現在の病院のシステムがHIV陽性の妊婦の治療を最後までカバーしきれていないことへの指摘である。その業務を担っているのが、うちのセンターと産婦人科。

今までじっと沈黙の中ひたすら調査を続けて、研究期間を終える寸前の今日、一気にぶちまけた感のある発表でもあった。
そのため、先週からローラの気合の入りようは半端ではなかった。

調べつくしたデータの数々が大量にスクリーンに映し出された。

多くの妊婦が途中でHIV治療をエスケープしていることがよくわかる内容に、どのスタッフも真剣に耳を傾け、プレゼン後は多くの質問が飛び交っていた。

事実を映し出す絶対的な数字の威力を思い知った。

ブロンドのロングヘアーで、頭にサングラス、ビンテージジーンズをカッコよく履きこなしていることも全て含めて、ローラの話す姿がとてつもなくかっこよく見えた。

こんなん、やってみたい。


日本語って、なんで日本人にしか通じないのだろう。 残念。
(注意:とても当たり前のことを言っています。)




午後は、月に一回行われる地域で陽性者のために活動するCHW(コミュニティ・ヘルス・ワーカー)の会議があるということで、近くの教会にいった。

野外で木陰に腰掛けておばちゃんたちとただ井戸端会議していると思ったら、会議がもう始まっていた。8人。思っていた以上に小規模の会議だった。

職場以上にスワヒリ語の嵐。
1時間を過ぎたあたりから、頭では全く別のことを考えて時間が過ぎるのをひたすら待った。
2時間を過ぎるころにようやく終了の雰囲気。

やっと終わる~。
と、思ったところに、
「MIHARU、今日の会議を終えてどんな感想を持った?」
と聞かれたので、

「私は現在病院で働いています。患者である皆さんの意見や要望はとても重要です。
私たちには想像できない病院の改善点があれば教えて欲しい。
その問題点の解決が、治療を途中で断念する人を減らすことに繋がると思います。」

と、本日の会議の内容というより、前回の初会議で行き場を失った意見を述べてみた。

この発言がきっかけで、終わりかけだった会議がなんとまた1時間延びた・・・。
止められるはずもなく、意外に白熱・・・。

発言した私自身は、理解不能のプラス1時間。
木陰にひっくり返りそうになりながらも、なんとか耐えた。



明日から、JICAのエイズ対策の会議のためナイロビに上がります。
久しぶりの100%理解できる会議、とっても楽しみです。

そのため、ブログも少しお休みします。
みなさん、よい週末を!




2010年10月27日水曜日

こうなるよね。

昨日の会議を経て、迎えた今日の午後。

センターには・・・・・・。

スタッフ誰もおらんや~~ん!!

と、一人突っ込む日本人がいた。


恐ろしく改善されなかった翌日。

いつも想像をちょっぴり越してくるケニアンたち。

確かに今日は朝から患者が少ない日だった。
しかし、ゼロではない。

それどころか、看護士と医者の1人が3時を過ぎても戻ってこない。

2人とも50歳手前。11時過ぎに既に家に帰ったらしい。

わかりやすい「逃避」だこと。


午後に来た患者には、いつものように声をかける。

目的の決まっている午前の患者と違い、個々への対応が必要な患者が多いのが午後。

どの患者にも要求を聞いてはみるが、対応できないことも多く、

わかったところで医者も栄養士も看護師も受付も居ないので、

「もう“しばらく”お待ちください。」としか言いようがない。

その“しばらく”が2時間を越えることもある日常。

今日も、その言葉を繰り返した。
患者のどうしようもなく疲れた雰囲気を痛いほど感じながら。

想像して欲しい。

あなたが行った病院にスタッフが誰もいなくて、
片言の日本語しか話せない黒人が1人だけ受付にいて
「ミンナハ イツカエッテクルカ ワカリマセン」
と話してくるような病院。

「よりによって、唯一いるのがなんで片言の外国人やねん?!」

私だったらすぐ帰りたい。違う病院に行きたい。

そんなケニアの病院に私はいるのだ。しかも、笑顔で。

しかし、HIV患者たちは3時間越しても待つのである。
それだけ待ってでも、薬をもらわなければならない現状があるから。


他人を変えられるとは思わない。
他人には自分の力で変わってもらって、それを自分がやったんだと実感して欲しい。

その変化の原動力となる心の部分にどう迫れるか。
何がスタッフたちに響くのか、どう動き始めるべきか、
今日はまたまた考えさせられた一日だった。

ま~、毎日何かしら考え続けてます~。

2010年10月26日火曜日

初会議。

今日は朝からセンター内が慌しかった。

ある人物の忠告により、11時過ぎからセンターにチャイ(お茶)のため医者がいなくなることと、午後の業務がしっかり回っていないという勤務体系で患者の待ち時間が長くなりすぎていると指摘されたのだ。

みんな、その指摘を誰がしたのだろうとあれこれ詮索している。

大方の予想は、以前私が意気投合したイギリスの大学教授であるローラ。
“あのMzungu(ムズング=白人)に違いない”
みんな自分のことを棚にあげて、好き勝手いっている。

そして、ドキドキしているのが私。

先週、「便利屋。」の回で書いた通り、「自分の力で何とか内部からやってやろう」と思った次の日の今しかない!というタイミングで、うちのセンターの上司にあたる私のカウンターパートが支援団体のリーダーと共に一日中視察しにきたのである。
いきなりのチャンス到来!!
前日のブログでの発言をすぐに撤回し、このセンターについて日々感じていることやこれからの改善点をいくつか個室でつらつらとカウンターパートに告げている私がいた。

“運悪く午前11時過ぎに来た人はスタッフがランチから帰ってくる午後3時前にしか診察が始まらない。私がここの患者だったら、このセンターにまた来ようと思わないです。”

私がそう告げた私のカウンターパートが動いたのかもしれない。
ドキドキしながら、朝のみんなの様子を眺めていた。

そして午後の空いた時間を使って、スタッフ全員集合の会議が行われることになった。
私の赴任以来初めてのことだったが、同僚たちも今回が初めてだったらしい。

会議開始と同時にみんなで神にお祈り。
真面目にぶつぶつと祈る彼らに驚く。

毎週末に教会へ通う彼らの神への崇高な祈りが、どう回り回って彼らのいい加減な行動に反映されるのかが些か理解できない。
会議の行方など、神にお願いするのでなく、自力で何とかしてくださいね。
と、つい皮肉づいてしまう。
彼らのことが嫌いなわけではないことを、付け加えておきたい。

さて、始まった会議。
議題は①患者の待ち時間の長さ②11時以降のスタッフの不在③患者への説明の不行き届き④センターのスペースの狭さ、についてだった。

議題には私が告げていないことも含まれていたため、この施設を改善しようと思っている人が他にもいることにここで気付いた。

みんな口々に意見を発し続ける。
最初よりは、少しばかりわかってきたかなと思っていた言語。
そんな自分の浅はかさを思い知るには十分過ぎる会議だった。

スワヒリと英語が完全にミックスされ、まくし立てる口調の会議。全く、ついていけない。
いざ!というときの決め台詞も用意していたが、全くお呼びでない様子。

しかし、雰囲気を感じるのには十分だった。
言葉が端々しか聞き取れない分、話し方や声色、表情、動作から、誰が言い訳ばっかり並べていて、誰が建設的な意見を言っているのかが言葉に惑わされずに感じ取れた。

論点がずれているとすれば、誰も患者の立場で物事を考えていない点だろうか。
一番の問題点だが・・・。

そして、会議終盤、このきっかけを作った他の病棟の年配看護士が登場した。
すごく強い目をしていた。
「この人の意見によって、初めての会議が開かれたんやなぁ。
午後にバラバラに暇をつぶしていたスタッフを動かしてひとつにしたのか。」

そう思うと、少し嫉妬した。

今回私が感じていたことと、彼女が感じていたことにあった多くの共通点。
一石を投じるには十分な気付きはあった。

会議終了の祈りを終えた午後5時過ぎ。
いつもならみんながとっくに帰っている時間帯。
患者に「明日来るように」ときっぱりお断りしている時間帯。

いつもと違い3名の患者を引き続き診察するスタッフの姿があった。
これがこのまま続くとは、思わない。

でも、きっかけって投じてみないとわからないし、ちょっとしたことでいいのかなと思う出来事だった。
良くも悪くも、とても素直な人たちであることには違いない。

きっかけの与え方、こちらの関わり方次第である。

主力は彼らだ。

2010年10月23日土曜日

6月15日生まれ。

患者の基本データを整理していたときのこと。

1978年6月15日生まれ。
1958年6月15日生まれ。
1960年6月15日生まれ。
1954年6月15日生まれ。
1972年6月15日生まれ。




ん?!?

ほぼ半分くらいの患者の生年月日が「6月15日」。

これ間違いじゃない?

と聞いてみると、

いつ生まれたか分らない人は1年の中間をとって「6月15日生まれ」となるとのこと。

中間?

6月30日でもなく、7月1日でもなく、「6月15日」である。

こうなると、西暦すらあやしい。


そういえばケニアにきて、ケニア人のほうから年齢を聞かれたことは一度もない。

あやふやな上に、年齢など気にしていないらしい。


それに比べ、日本人は年齢をよく気にするなぁ。と思う。

体育会系だと、なおさら。

2010年10月22日金曜日

産婦人科。

先週は産婦人科棟を見に行ってきた。

私の同年代には2~3人兄弟が多かったが、生涯に一人も産まない女性もいる日本。
ケニアでも高学歴の病院の同僚たちと話すと、養育費がかかるから子供は2~3人がベストだと日本人のような感覚の人もいれば10人以上産む人もいるケニア。

その中で、国別の平均を表した合計特殊出生率(一人の女性が一生に産む子供の平均数)を比べてみると、
日本 1.27(世界190位)
ケニア4.96(世界28位)
と、大きく違う二国。

ひっそりと灰色のイメージがある一般病棟とはガラリと変わって、
産婦人科病棟はノリノリのケニアンミュージックがガンガン鳴り響いて陽気な雰囲気だった。

朝から廊下にずらりと並ぶ約20人程の母親たちと、その手に抱かれた赤ちゃんたち。
それはつい昨日、産まれたばかりの赤ちゃん達。
なんと、今日。
母親と家に帰るらしい。

ケニアでは、陣痛が始まってから病院に行って出産し、
その次の日には退院するのが普通とのこと。

産婦人科棟内には大部屋が3つあり、
①産前の人の大部屋
②産後の人の大部屋
③分娩のための大部屋

そして、保育器のある小部屋がある。
①②では、多くの人がベッドをシェアしている。

そして、お気づきでしょうか、③。
何も知らずにふらりと入った大部屋がまさかの分娩室だった。
ふらりと入れてしまう場所、分娩室で目に飛び込んできたのは、
カーテンなどの視界をさえぎるものが一切ない状態で、
こっちに大きく脚を広げ、お下を縫製してもらっている出産直後の母親と
目が合うことの、驚きと衝撃

目が合っても依然として堂々としたままの母親と目が点になる私。

出産経験がある妹にこのことを話すと、産んだ直後は誰かにみられてどうこうという次元をはるかに超えているため、そんなことはどうでもよくなるらしい。

そっちはどうでもよくっても、こっちにはそれなりの心の準備ってものが・・・。

しかし、そんな境地に行きつく出産。まさに、未知の世界である。
そして、日常的に病院の敷地内のそこらじゅうで目にする授乳中の母親たちの存在。
この間など、授乳しながら血圧を測定している母親がいた。
まさに、母親は強し!

しかし、翌日に退院していく話を妹にすると「私やったら、死んでる。」との回答だった。

10人以上子供を産んだ人の話では、8人目くらいから、もう痛くなくなるらしい。

スゴイことになりますやん。としか、いいようのないこの情報。

しかし、7人目と8人目の間くらいに、一体何が起こるのだろう。
知りたい人、是非トライして私に教えてほしい。

とにかくボコボコ子供が産まれているという印象を強く受けた、産婦人科棟だった。
新たな生命が誕生する現場は、やはり活気があっていいものです。


2010年10月21日木曜日

ロンゴノット登山。

いや~、昨日のブログがよいフリになりました~。


県立病院のスタッフ28名参加のこの登山イベント。

朝6時30分病院集合。

そこにいたのは、私、ただ一人だけだった。

大掛かりなドッキリか?!と、カメラを探すも、あるはずもなく・・・。
なんせケニアの日常ですから。

収穫といえば、
家がなく病院の外の待合室で寝泊りする人ってこんなにいるんだなぁ。という新たな発見。

そして、昨日の予感が的中。

8時前にみんなが揃いだし、8時過ぎに来ている15名だけで出発することになった。

そして、地元スーパー「ナイバス」に寄った・・・。

昨日「お弁当と飲み物を忘れずに持ってくること!」という、主催者からの忠告を受け、
私のかばんの中には早朝からせっせと作ったハムタマゴサンドと大学イモが入っていたのだが、
「あ、スーパー寄るんだ・・・。」という私の反応をよそに
みんな続々とマタツを降りて昼食を買いに行ったのであった。

そんなこんなで、無事に登山口に到着したのだが、
そこで今回誘ってくれた主催者の医師が「今日は気分じゃない」とまさかのリタイア・・・。

で、最終的に事前に昼過ぎだと聞いていた帰宅時間は、実際は夜の8時・・・。

想定外が盛りだくさんの一日となったが、ここまでは単なる報告である。
これらについては、特に腹を立てるようなことではなく、
若干ニヤけながら観察している毎日。


私の集合時間についての思考は、
自分自身が6時15分に到着し「誰にも迷惑を掛けなくてよかった。」と思った時点で
すでに終わっているからだ。
人様に迷惑だけは掛けたくない。

私、日本人ですから。



さて、本日のメインイベント、ロンゴノット登山後の率直な感想。

事前に聞いていれば絶対行かなかったしんどさ。

しかし、聞かずに参加してしまい、
「本当に行ってよかった」という達成感があった。という山だった

(以下、ロンゴノット山Wikipediaより)

ロンゴノット山はロンゴノット山国立公園の一部であり、ケニア野生生物公社 (KWS) によって保護されている。国立公園の入り口からクレーターの縁まで道が伸び、クレーターを取り囲むループ状の道に続く。全行程は約8-9 kmの長さであるが非常に険しく、クレーター《8×12 kmのカルデラ》を持つ一周を含む、公園入り口-ロンゴノット山頂-公園入り口、を行くにはおよそ5時間のハイキングになる。入り口は海抜およそ2,150 m、山頂はおよそ2,780 mであるが、ジグザグのクレーター縁をなぞるため、実質的に垂直で650 m以上登ることになる。


ロンゴノット山自体は頂上まで5キロの距離で1時間もあれば行けるのだが、この山の醍醐味は距離でも所要時間でもない。火山灰にまみれた非常に険しい岩山を、足を掛け違わないように注意して登り続ける過酷さ。後半の30分は無酸素トレーニングの状態が続く。

思ったより早い時間に頂上について目下に広がる巨大クレーターを前に感動していたのも束の間。

今度は、このクレーターを1周するとのこと。

今まで登ってきた場所以上に高く、見るからにアップダウンの激しいクレーターの淵の景色が、一瞬にして感動からノルマに変わった。

クレーター周囲だけで、休憩も含め全員で結局4時間ほどかかった。


一歩足を踏み外せば、クレーターの中に真っ逆さまに吸い込まれる。
出発地点から海抜2000mを越えているナイバシャ、ただでさえ息が切れる。
標高がそれ以上ある場所など、私が長く居てよい場所ではない。


最初の4分の1の地点で引き返したくなったが、「限界を自分で決めるな」という、教師時代に生徒に発していた私の言葉が重くのしかかり歩き続けた。

しかし、ケニア人の中でも小さい頃からもっと高い標高で育っているケニア人は
本当に散歩するみたいにして、息も切らさずに走っているのには驚いた。
そう、彼らはアホみたいに走っているのである。
アホといってしまったが、絶対に走って登り降りしてはいけない
クレータ淵の火山灰だらけの岩ぼこ道を、大人も子供も本当にマジ走りしているのである。

なぜか、サッカーボール持って走っている人にも出くわした。
サッカーをする場所など、クレーター淵には存在しない。

なかでも驚いたのが、ロンゴノット山のガイドのおっちゃん。
毎日のようにこの山を登って道案内をしているらしいが、
スラックスに安物のローファー、そして仕事に必要な色んな道具を
少し破れた大き目のスーパーの袋にいれてバックにしている。
時にはアメちゃんを配り、補助に入り、まったく砂埃を浴びずに、
楽な顔でスイスイ~っと山を先導してくれた。
おっちゃんの背中に「無敵」という文字を見たような気がした。

山登りやマラソンなどは、よく人生に例えられる。

この協力隊の活動とかぶることもとても多いと感じた。

《久しぶりの登山で感じたこと》

・歩幅は小さくても確実に自分を前に進める一歩が大事。
 (進んでいないようでも、足場を固めることで次の一歩に

・一点ばかり見ず、変化する景色を時より振り返る余裕を持つ。
 (その時々の良さを見失わないように、自分の場所を客観的に捉える)

・その道を行くために、何が一番必要が優先順位を考える。
 (時には、無理しないことを優先することも大事)

・一人より二人、仲間は多いほうが楽しく、学びも増える。
 (苦労を共に出来る仲間の大切さ、喜びも2倍以上)

・先が見えないようでも、確実に進むことで登っている。
 (アップダウンはあって当たり前、遠くから見ると滑らかな線)

そして、

頂上にいった者にしか見られない景色、
 味わえない達成感がある。
(下山後に見た山が一番大きく見えた。活動の中で、見る!)

活動と大きく違う点を挙げるとすれば、協力隊には制限時間があることだろうか。

しかし、自分の活動後も現地の人だけで持続できるような活動の種を蒔くことができれば制限時間を越えることも可能になる。
自分の色んな想いや考えの点、現地の人の希望の点が、線となって大きな円になれば永久に続くのになぁ。
と、目下に広がり続ける巨大クレーターの足場の悪い淵を歩きながら感じていた。

さぁ、明日も頑張ろう。

2010年10月20日水曜日

集合。

明日の登山、朝6時半に病院集合だと連絡があった。

本当に6時半なのか、実際は8時位か、

ケニアンタイムが読めないので、日本人らしく6時15分には到着するつもりでいる。

行って来ま~す。

2010年10月19日火曜日

便利屋。

自らの存在意義を見出すべく、今までセンターのあらゆる仕事に関わってきた。
嫌な予感は十分にあった。

私が出来る仕事が増える = センターがより良くなる

というより

私が出来る仕事が増える = もっと楽になる人が増える

という循環を今まで嫌というほど目にしてきたからだ。


それがこれからやっていきたい活動の足を引っ張り出している。

やりたいこととは、アウトリーチや外部団体とセンターの関係づくり。
これによって、来なくなった人も含めてセンターに来る人をより多くし、来ている人によりよい環境を用意したいと思っている。

センターの外に出て行かなければ、自分で詳細をつかむ事は不可能だ。

本日はセンターを出て、朝に行われる一般病棟の問診に行くつもりが、
センターの仕事が終わってから行くようにと足止めをされる。

センターの仕事とは、まさに便利屋。

必要とされているといえばされている。

しかし、私が働けば働くだけ、私に任せっきりで、

長い時間チャイやランチから帰ってこない人も増える。

簡単に表すと、「MIHARUがやっといてくれるわ。」ってな感じ。

この現状は、私が1ヶ月かけて作り出したものだ。


私がいることでスムーズに運営出来るシステムの構築。

ではなく、

現地スタッフのみでスムーズに運営できるシステムの構築。


これが、JICAから受け取った私に対する要請である。

しかし、現地スタッフが「患者の待ち時間を少なくしたい」と思っているかどうか、

それが、そもそも疑問なのだ。

センターのスタッフの上司にあたる私のカウンターパートに一言いってもらえば
すぐに解決することだが、何とか自分でどうにか出来ないものかと試行錯誤の毎日である。

いままでも、、
「言葉さえ通じればなぁ・・・」

と散々思ってきた。
それなのに、その「言葉」にちゃんと取り組まず、今まで逃げ続けてきた私。

現状でも十分、ここで楽しく生活はできる。

しかし、もし帰国後に後悔するとしたら
「語学をもっとやっとけばよかったなぁ。と思うんだろうな。」
ということには、とっくの昔から気づいている。

現地語で、HIVについて語り合える自分。
現地語で、HIVポジティブの人に希望を持たせる自分。
現地語で、自分のやり方を納得させられる自分。

なりたいに決まっている。

週末に同期隊員と連絡を取りあうことで、また色んな刺激をもらった。
ありがとう。みんな。


やるしかない。


2010年10月17日日曜日

登山。

次の水曜日、ケニアは祝日で休みである。

同僚に一緒に登山に行かないかと誘われた。

イベントは嫌いでないが、インドア派。

登山と聞いてモチベーションが上がったことはない。

次の日に支障が出るような登山なら、出来れば行きたくない。


どの山かと問えば、ナイバシャ湖の南東にある Mt.Longonot とのこと。

返事を月曜日まで待ってもらい、早速どの程度の山なのか情報収集。


ある同僚は、
「大体6時間あれば山頂までいける。着替えと水を持ってきたほうがいい。」
事実なら、ここですぐ断りたい。

しかし別の同僚は、
「大体2時間あれば山頂までいける。今日のMIHARUの格好で十分よ。水だけ持ってきたほうがいいわよ。」
急にハードルが下がりびっくり。

また別の同僚は、
「1974年に一度登ったきりだなぁ。とにかくしんどかった。」
参考にならない情報。


とのことで、みんなバラバラ。

水が必要なことは確かなようだが、そんなことは聞かなくてもわかる。

ケニア人の身体能力がいまいち判らないので、

たいしたことない。というレベルが、よくわからない。


しかしこの登山、病院のスタッフ20~30人で行くとのこと。

ものすごく太った同僚も行くと聞いて初めて、

「なら、いってみようかな」

という気になってきた。


カメラがないので、色んな景色を目に焼き付けてこようと思う。

アウトリーチ。

本日は土曜日。
病院は休みだが、ナイバシャ県内の村へアウトリーチに行くというので頼んで連れて行ってもらった。
今回のアウトリーチの目的は、村の子供たちの身体測定とHIV検査とHIV予防教育。
朝8:30に病院集合ということで15分に到着、結局出発したのは10時。
出発後すぐにタイヤがパンク。

こんなもんです。ケニアって。

地方の病院に着くと約200人の子供たちが待っていた。
体重を測って、ビタミンの錠剤を食べさせる。
その後、別の部屋で母親も含めてのHIV検査が行われる。
個別というより、一斉にといった雰囲気だ。
後で聞くと約8名程が陽性の判定だった。
12歳、16歳の子供もいた。
どのようにして感染したのだろう。

その後、10歳以上を対象にしたHIV教育は1時間以上あるDVD鑑賞。
16~7歳で2~3歳の子供を連れている母親(子供?)も何人かいたので、学習をするのに決して早い年齢ではない。
しかし、その内容はかなり先進国的に作られたドラマで、ケニアでは見たことない程のネオンが輝くナイロビで、超派手なファッションの男女5人グループが様々な人とのSEXを繰り返し、終盤はHIV感染の恐怖に苦しむという・・・。
TVの前で鼻を垂らした子供たちとは、全くかけ離れた環境に住む若者たちのドロドロしたドラマであった。
日本の中学生日記のような予防啓発DVDとは、また違う。

私にとっては、スワヒリ語と英語字幕であることに加えて、登場人物が多い上に激しく入れ替わる展開に、一体誰と誰が寝たのか把握できない状況の中で、最後に「どの人物に共感できるか?日本の先生に理由も聞いてみよう?」という無茶ぶりな質問を約50人の子供たちの前でされてしまい、唯一覚えていた登場人物の名前を答えたら、偶然にも的を得ていたようで、そのことにとにかくとにか~く安心したというだけの、とっても長いと感じるDVD鑑賞となった。

でも、10歳から18歳までの男女が8畳ほどの部屋に約50人程入ってキスシーンやらベッドシーンやらを見るのは、色んな反応が見られて面白いものだった。
女の子は年齢が上がるにつれ「ワォ!」「ヒュ~!」などの興奮した声を出しているのに対し、男の子はじっと固まって直視していることがほとんど。
しかし、司会者が時々DVDを止めていくつかの質問をすると手を上げて「コンドーム」とか「好きな人は一人に絞るべき」とか答えていて、そこに日本との積極性の違いというか性に対しての認識のような違いをみた。
年齢の低い子供たちは、その様々な反応を不思議そうにみつめている。
この色んな反応からまた性に対しての何らかの認識を持っていくのだろう。
性を語り合うことは決して悪いことでも、恥ずかしいことでもないということを。

日本では地域の同年代で顔を合わせて、ましてや性の話をするなんてことはない。
年代を超えた地域でのつながりは、これからの日本で増えていくことはあるだろうか。

その後、参加者にはパンと飲み物が振舞われた。
これらの集客効果はやはりすごいと思わされた。

帰りのマタツを待つ間に「子供たちが初めて出会った外国人」としての期待(何の?)を裏切らぬように、寄ってたかってくる子供たちと遊び始めた。

まさかマタツが2時間も来ないなんて思わなかった。

しかし、歌を交換しあったり、君が代をオリンピックのセレモニーに呼ばれた歌手のように熱唱したり(アンコールはお断りした)、ケニアのダンスを一緒に踊ったり、相撲をとったり、日本の歌を紹介したり、鬼ごっこしたり、とにかく楽しいひと時だった。

私、こんなに小さい子供たち好きだったかしら。

きっと、毎日の病院勤務でたまっていたものもあったのかも知れない。
疲れたけど、また連れて行ってもらおうと思った初めてのアウトリーチとなった。




2010年10月16日土曜日

入院病棟。

アフリカ全体とケニア国内の「貧困」「死因」の現状を知っておこうと思い、

「貧困」「死因」の検索ワードで検索した。

トップに出てきたのは、アフリカではなく

日本の貧困と自殺についての記事だった。

日本語で検索したせいもあるが、日本の貧困について述べたいくつもの記事が並んでいる。

そして死因について、現在日本は自殺について異常事態に陥っているという記事。
12年も連続して、年間3万人を超える人が日本のどこかで自ら命を絶っている。
平均すると今日1日で約90人。判明しているだけの数字。


これは高校の保健の授業で毎年話してきた内容である。
自殺については、また書きたい。


今日は、入院患者の病棟の問診について行った。
結核などの感染症を患っていない人々は2人でベッドを共有していた。
日本なら無菌室で治療できるはずの人も大部屋にいる。
両足のスネの骨が半分以上むき出しになった人が消毒をしていた。
骨の周りの筋肉は教科書で見た通り真っ赤だった。

私が外食するときはいつも食べ物に一目散にたかるハエが、
見たことのない数で食べ物を素通りして人間の身体にたかっている。


直視することと、顔をゆがめないことをずっと意識していたように思う。
平然を装って、時より患者に笑顔も見せながら。




生きるって、なんだろうか。


2010年10月14日木曜日

キーパーソン。

今日もいいことが立て続けに起こった。ので、また更新する。

「なんで医者になりたいと思ったの?」


『僕は小さい頃、貧しい家で育ったんだ。

 でも、小さい頃から医者になりたかった。

 僕は幸運なことに小学校の頃からイタリアのお医者さんからずっと学費の援助を受けられた。

 尊敬する彼の生き方に憧れた時から、ずっと彼と同じ医者になりたかった。

 僕は今、幸運なことにお金がある。

 でもまだまだ足りない。

 ケニアの貧困に向き合ったり、僕が育った村に恩返しをするには、まだまだ足りないんだよ。』


すごい循環・・・・。

次はどんな循環を生み出すんだろう。


そういって話してくれたのは、私の所属する組織のトップだった。

帰り道にたまたま会い、家に寄っていくかと誘われ、

「なんで医者になりたいと思ったの?」

という質問から始まり、感動のあまり呆然とする私に、彼が行っている週末のボランティアの様子をまとめたDVDを3時間ぶっ通しで見せてくれた。
しかし、まったく長いと感じなかった。

「ボランティアだから、活動はフリーさ。」


そのビデオには、たぶん皆さんがイメージするケニアの姿が映像として収められていた。


民族衣装を身にまとい、ハエが目や口元にぶんぶん飛んでいて、唇や耳に大きな穴があいていて、叫びながら変な踊りを踊っていて、裸足で歩いている人たち。

しかし、字幕には『2010年7月』と書かれている。

そこの村長と共に、伝統文化の中で残していくべきものと未来のために修正していくべきもの(女子割礼、女性に教育を受けさせない、HIVに対しての差別的烙印など)のレクチャーを真剣な顔で行っている団体の中心に彼が立っていた。
DVDの中の彼は村長が話す聞き覚えのないそれぞれの部族語をスワヒリ語に同時通訳して話していた。
42部族の言葉がだいたい理解できるらしい。
「すごい!」という私に、「勉強しただけのことだよ。」という回答。
はい、ごもっとも・・・。

「土日に働くことが好きなんです。(何それ!?)私もレクチャーがしたい。」
そういって、この活動についていくことにした。


みるからに40代後半の彼に、「息子さんですか?」と聞いた男は彼の兄弟だった。
彼より年上ばかりの部下を従えている彼の年齢は32歳。
聞いたときは衝撃だった。

片言のスワヒリ語で、実習生みたいな動きを続ける私が、
30歳だと知って、私以上に驚いていた彼。

たった2歳違いの、私と彼。

彼は、ケニアを客観的に見ていない。

また一人、活動のキーパーソンを見つけた一日だった。



共同企画。

HIV/AIDSに関するポスター制作の計画をしている。
それも、私の8年間勤務していた滋賀県立彦根東高校の生徒に協力をお願いしての共同制作である。非常に胸が高鳴るこの計画。

この計画は、毎月私のケニア通信を掲載してくれる本校の新聞部の生徒とのやりとりの中で、赴任直後に勝手に思いついたことで、早速提案してみたところとても快く引き受けていただいた。
これも偉大な顧問の先生のおかげなのだが、彦根東高校新聞部は今年も3年連続4回目の「全国最優秀賞」を受賞した、いわずと知れた超名門新聞部なのである。
なので、この新聞部に送信するケニア通信はいつもJICAに提出する報告書以上に緊張している。

彦根城内にあり、他にも自慢するところがありまくりの高校なのだが、今回は控えることにする。
しかし、何より一番自慢できるのは本校の生徒!!これだけはいっておきたい。
進路実現に向かって、突き進め~~!!(結局なんだかんだ言ってる。)

さて、承諾してもらってから早一ヶ月。
ポスターの文句をスワヒリ語で考えるといってから、まだ具体的に何も決めていなかった今日の午後。

自分だけで考えるよりも、同僚たちにも一度聞いてみるか~。ということで、

「HIVについて訴えかける超かっこいいポスターを日本の生徒と共同制作したいんだけど、スワヒリ語のメッセージ一緒に考えてくれない?」
と提案してみたところ、賛同者が出まくりの事態になった。

今までチャイ(ケニアのお茶)の時間に交流を深めてきた他病棟の医師も、その内容を一緒に考えてやろう!と今度の金曜の午後だと日付まで指定してきた。
チャイの時間も捨てたもんではない。


さて、面白いことになりそうな予感。
今ある何通りかのアイデアをケニアと日本のみんなの力でどのように形に出来るか楽しみである。
本校の癒しゆるキャラである『ひこにゃん』ならぬ、『ぎんにゃん』がうちの病院を占拠する日は近い。

ふふふ・・・。

2010年10月13日水曜日

慈悲?

きれいに手入れされたトヨタ車に乗っているケニア人の友達がいる。

乗車すると
「おはようございます。カードが入っていません。」
「目的地をマイクに向かって話してください。」
と、流暢な日本語で話し続けるトヨタ純正のカーナビ。

2003年版のCD-ROM版カーナビにはアフリカ地図も英語表示も網羅されているはずはなく、ディスプレイに表示される日本語は、ケニア人にとってまったく見当のつかない文字。
この設定を「音声通知なし」に変えてあげたのが最初の出会いだった。

それからというもの、たまに病院から家まで車に乗せてもらい、その度にスワヒリ語と英語で必死になって話している。
彼のお父様はナイロビ大学(日本の東大)の教授で、彼はIT学部の学位を持っている。
簡単にいうと、彼はボンボンである。

いつも清潔感のある服を着こなしている彼。
私の言語力の乏しさをよく知っていて、いつも簡単な言葉を選んで話してくれる。
「日本語ほど難しい言語を使えるほうがすごいよ。僕は日本語話せないから。」
などと、真顔で語る彼。
良い悪いの話ではなく。
彼と話していると、お金を持っている人の心の余裕を感じてしまう。
裕福さと豊かさとも感じとれる余裕。


以下、会話文。

彼:「MIHARUは、ケニアで何を学んでいるの?」

私:「私はアフリカ・ケニアのHIV/AIDSについてあらゆることを自分の目で見て学び、経験し、確かめたいと思ってここにきている。そして、HIVを通して貧困や教育のことも学びたい。そして2年後に日本に帰った時、それを多くの日本人に伝えたい。まだ、1ヶ月しかたってないけど、毎日学ぶことばかりだよ。」

彼:「ケニアは貧困・政治・教育、どれをとっても問題ばかりだ。貧困は特に深刻。」

私:「私はナイロビで物乞いをする子供たち、病院で貧困のために衰弱しきっている人をたくさん見た。その人たちの前に立つと、いつも自分の心の整理がつかなくなる。でも、これからもずっと考えていきたい。」

彼:「それは、“Mercy”だね。」

私:「“Mercy”?」

すかさず、電子辞書で調べる。
Mercy=「慈悲、寛容、親切、哀れみ、情け、寛大な行為」

私:「う~ん、どれも当てはまらない。」
彼:「それじゃ、Sympathy?」

Sympathy=「同情、思いやり」

私:「なにか違うなぁ。今は言葉にできないのかも。
でも、彼らが私に多くのことを考えさせてくれる対象であることは違いないな。」

ケニア人の彼は、ケニアに数多くあるスラムに行ったことがない。
スラムに住んでいる友達もいない。
「危険だから行かないほうがいい」と忠告もしてくれる。


住む国が同じでも、住む環境が違うため、接点がない。

会話していて感じたこと。
彼が貧困に対して持っているイメージと、
彼はケニア人でありながら、ケニアの問題をとても客観的に見ていること。

どこか切なさを感じると同時に、
自分自身は地球人でありながら、地球の問題をとても客観的に見ていることへの気づき。
日本人でありながら、日本の問題を客観的に見ていることへの気づき。
接点がないのではなく、接してこなかったということ。

そして、貧困を目の前にしていつも感じること。
ケニアにきて初めて私の目の前に広がっている現実は、いつも考える材料になるだけで、感情が湧き上がる対象になっていないこと。

「10シル(約10円)ちょうだい。」
と、声をかけられて、いまだに自分としてどう振る舞うべきかの根拠がまるで見つかっていない。今はただ、全員に対して同じことが出来ないから、という理由でお金をあげたことはない。

しかし、その言い寄ってくる人間に対しての感情が自分で見えない。


病院では毎日のように午後の時間に、色んな医者をつかまえては質問攻めにしている。
「なんで医者になりたいと思ったの?」
「貧困について」「HIVについて」
みんなちゃんと答えてくれる。

気の済むまで、色々聞いてみたい。
ここに身をおいているうちに。


2010年10月11日月曜日

結婚式ビデオレター。

高校時代の友人の結婚式の2次会にビデオレターを頼まれ

自宅で一人撮影した。

「ギター弾き語り+激励+スワヒリ語で締めの挨拶」

ざっと、2分間。

撮影開始が夜9時。

完成度をどこに求めてか、

その後だらだらとTake30程繰り返し、

夜の12時過ぎに撮影終了。

たぶん、Take13前後の出来が一番よかった。

最後の1回をネットを通じて送信したが、

朝起きて再確認したらひどい出来だった。

当日の反応が非常に気になっている。


それにしても、この協力隊活動の2年間に結婚する友人の多いこと・・・。

2010年10月9日土曜日

カリブパーティ(主催側)。

同期18名(1人は公務で欠席)の力を結集して盛大に開催したナイロビでのカリブパーティの様子。

今回は準備からお見送りまで、写真でご覧ください。

今回の新隊員は、青年海外協力隊が5名、シニアボランティアが3名。

最年長は68歳。

そこのあなた、「もう若くない」とか「歳には勝てない」なんていってられませんよ~!

PARTY当日・幹事の同期18名で打合せ

心はずむ瞬間♪

各自準備にとりかかる。



我らケニア隊のクッキングママ-ズ。
カレーの大鍋3つ分の重要任務。



デザートの準備もばっちり。
参加者全員の赴任地が一目瞭然。
はじまり、はじまり~

新隊員参上。

幹事18名特注のハッピを着て歓迎のダンス「UFO」披露。


ケニアで食べられない日本のカレーは大人気。


シメのデザートもおいしく頂いて・・・。
最後は全員で肩を組み大きな円で、「若い力の歌」を熱唱。


みんながひとつになりました。
現在のケニア隊員は参加できなかった人も含めて約100名の大所帯。
終了後すぐに片付けを終了。その後、同期隊員で「反省会」という名の「満足会」。
大人数の力強さと
各自の大きな魅力に
またまた気付かされた今回のカリブパーティでした。

また、みんなでケニアで何か仕掛けたいなぁ。

2010年10月8日金曜日

いい子。

いつも頭の中で渦巻いて、整理が付かずブログに書けていないことが割とある。
仕事がない時間帯、身体は止まっていても、頭は自分の思考をどこに着地させようかとグルグルぐるぐる回っている。そろそろ、わからないままの、ありのままのことも書いてみようと思う。
これ以上考えても、結論は出ないことかもしれないから。

私の働くセンターには、陽性の母親から生まれた子供たちも多くやってくる。
既に陽性と判明している子供もいれば、生まれてきてわずか1週間でまだHIV検査をしていない子供もいる。3~5歳の子供になると陽性者の子供の人数はぐっと増える。
毎週水曜日には、まだ検査をしたことがない幼児の足の踵から5滴の血液を採取し検査所に持っていくという作業が入る。
今まで母親に抱かれながら、泣き叫ぶ子供たちを何人も見てきた。

そして、今日も幼児が診察にやってきた。
深刻な水分の不足で手も足も皮膚がゆるみ、栄養失調のためお腹が膨らんでいる。
2歳で体重が4キロもない。
人手が足りない午後の時間帯。
早速私も手袋をはめて体温の測定と点滴用チューブを手の甲から差し込む作業の補助をした。

じっと私を見つめる子供の大きな目。
息づかいは荒く、私の指を握る反対側の手からは高体温が伝わってくる。

医者の説明を聞きながら終始元気のない母親。
もう幼児を見守る元気もないほど疲れている。

手の甲から針付きのチューブが差し込まれる。
相当痛いことには違いない。
「ウウッ・・・」
と、泣きそうになったのを絶えたようにして、
その子供は泣かずにまだ私の顔をじーっと見ていた。

「とてもいい子ね。泣かないもんね。おりこうさんだね!(^0^)」

スワヒリ語でしっかり母親にも聞こえるように大きめの声で子供に言った。
しかし、予想した母親の笑顔はそこになかった。

診察の終盤、子供が白目をむいた。
すぐに、みんなが身体をゆすった。
生きていることを確認したのだ。

手につけられたチューブは手の甲に固定され、小児科病棟への入院が決まったその子供はこれからそのチューブを通して投薬と栄養を補給する。

実は最近、午後の空き時間に小児科病棟に行くことが多々ある。
うちのセンターの栄養士に付いて行き仕事を手伝う。
牛乳に砂糖とサラダ油を混ぜて調合したミルクを、栄養失調の子供に飲ませる。
2段階あるそのミルクの配分はもう完璧に覚えてしまうほど通っている。

2週間前、初めて小児科病棟にいってミルクを作った。
その次の日の朝、栄養士の出勤がいつもより遅かった。
「昨日MIHARUがミルクをあげた子のうちの一人が、今朝亡くなったの。
 そのベットの後片付けをしていたのよ。」
原因は、栄養失調による衰弱死。
それ以上のことは、何も聞けなかった。

その時亡くなった子供と今日新たに入院が決まった子供の症状は今の所同じである。
病院に来られる子、来られない子。
救える命とは、一体どの命か。
無事退院できたとしても、この子達はどんな環境に戻っていくのだろうか。

今日の帰り際、診察で一緒だった同僚が教えてくれた。
「MIHARU、今日のあの子ね。[いい子]だから泣かなかったんじゃないのよ。
 衰弱してエネルギーがないから、泣きたくても泣けなかったのよ。」

その瞬間、自分がよかれと思って発していた言葉が、
ずしりと重くのしかかり倒れそうになった。
なんてことを言ってしまったんだろう。
私の手を握りしめ、私の目をずっと見つめていたあの子は、
私に何を伝えていたんだろう。
それなのに、何にも気付けなかった。

お母さんにも、子供にも、
「ごめんなさい」が止まらない。

「子供は元気」なものでない。
「気合い」ではどうにもならない。
ここは、学校でないことをまた痛感した。


2010年10月7日木曜日

出た。

信じられないことが起こった。

なんと、夜中の3時半から水道水が出始めたのだ。


いつもなら深い眠りについているこの時間。

しかし、昨夜は停電していたため7時半に就寝した。

そして、朝かと思って起きたら、まだ12時半だった。

目が冴えるので、パソコンの整理と家族とスカイプをしていると遠くで水が漏れるような音がする。

確認すると、トイレのタンクに水の溜まる音ではないか!

1ヶ月ぶりに見たこの光景。

昨日強く願った。
結構早く、願いが叶った。
神様は私を見ている。

バケツやペットボトルを総動員してチョロチョロ出る水を溜め続け、
もう朝の6時になる。

今回は、睡眠よりも水をとった。

蛇口から出る一筋の影。
途上国在住者には、たまらなく興奮する画像である。

2010年10月6日水曜日

カット。

今日の朝、衝撃が走った。
近所の奥さんと朝の挨拶をしていた時のこと。

奥さん:「“カット”の話聞いた?」
私:「“カット”の話?知らないけど?」

聞けば聞くほど、動詞でない“カット”が何かわからない。

ケニアン英語では「Can」も「キャン」ではなく「カン」と発音する。
「キャ」が「カ」になってしまう。
非常にややこしい。
ということは・・・・

奥さん:「2~3日前にあなたの家の雨水タンクに“カット”がはまって死んでたの。
      すっごい臭いだったわ。隣のおっちゃんが捨ててくれたけど。」

カット = キャット = ネコ!!!!
ぎょえええええ~~~!!


今朝までの3日間、私の身体や服や食器をゴシゴシ洗っていたあの水!
巨大雨水タンクのため、水道水が出なくても平気だと豪語していたのに・・・・。

どうやらナイロビ滞在中の出来事らしい。
もう少し早く聞きたかったが、これでも早かったほうかもしれない。
そして、おっちゃん、マジでありがとう。

ネコのプライドにかけて、はまってくれるなよ。

ということで、今仕事から帰ってきて雨水タンクの水を全抜きしている。

ケニアは10月から雨季と聞いていたのに、
なんとナイバシャには乾季しかないという有力情報を先程得てしまった。。


雨よ。ドンと降ってこい!!
それか、水道水!!

入澤監督の言葉。

さて5日間のナイロビ滞在を終え、昨日無事にナイバシャに帰ってきた。
ナイロビのドミトリーも十分のんびり出来るのだが、ナイバシャに帰ると自分の本拠地だという安心感がある。
そういう意味でも、先輩隊員になったことを実感するひととき。

ナイロビに到着した次の日は予定通り、アフリカバレー選手権を制し、10月29日から日本で開催されるワールドカップの出場権を得た「ケニア女子代表チーム」の練習を見学に行った。
このチームの監督を務めるのは我ら協力隊のシニアボランティア、入澤監督である。
午前中にスパルタの部分練習をすると聞いて、「ならば午前中に是非!」ということで激励にいった。

一言でいえば、「感動」だった。

「手首を使うんじゃなく、ストレートに振り抜け!
 足の置き方はこうで、ステップはこうだ。やってみろ。
 出来た!やるじゃないか~(^^)!!」

白熱すればするほど、体育館中に響き渡る日本語でのコーチング。

その入澤監督の言葉ひとつひとつを感じ取った周囲の選手が、
指導を受けている1人の選手に口々にスワヒリ語で伝える。

十分通じている。

「考えるんじゃない、感じるんだ。」という、世界。

もっと上手く、もっと強くなりたい。と思う選手達と
その最短距離を行こうとするケニア代表監督。
実に気持ちのいい空間がそこにあった。

全身バネの様な選手の肉体。
特にヒップからハムストリングの筋肉の盛り上がり方は芸術品の域。
バレーの練習特有のリズミカルなボールの配球にピタリと合った選手のスパイク・レシーブ、
そして甲高い発声、その息の合った絶妙な掛け合いに胸が熱くなる。
スポーツは国境も言語も越える。偉大だ。

入澤さんにとってその日の練習は、明日に代表選手発表を残した最後の本格練習。
気の入りようも半端ではなかったはず。
しかし、だからといって特別なことをするのではなく、今までやってきた通常練習の中で、自分が先に帰国することでしばらく会えない選手達に、本番までに直して欲しい細かい部分を繰り返し指導されていたように思う。
一層熱の入る指導に、自分が顧問だったバスケ部の最後の練習を思い出し、さらに胸が熱くなった。

この入澤監督、見るからに鬼監督という言葉がしっくりくる監督である。
日本の実業団、高校バレー界で長い監督経験をもっている入澤監督が、今回のケニア女子チーム指導から学んだこと、それは「笑顔」。
ベテラン監督が自らケニアバレーに「学んだ」と言われたことにも凄さを感じた。

“「今日、元気ないの?」って、選手から言われたことがあってね。初めてのことでびっくりしたよ。”

“「笑う」ということを、この子達から教えてもらった。今では練習でとても大切な要素になってる。”

笑いながら気さくに話してくださる入澤監督。

そして、私たちにはこんな言葉を下さった。

「活動に遠慮はいらない。
 やってみたいこと全てやればいい。

 みんなは何やったっていいんだ。
 言葉が通じなくったってやればいい。
 文句いわれたって、失敗したって、JICAや勤務先に嫌われたって、
 たかが2年。

 2年間で終わる。
 帰国する時に自分で編集した素晴らしいDVDに満足して終わるために
 協力隊やってるんじゃないんだ。

 絶対に遠慮しちゃダメだぞ。」

ありがとう。入澤監督。

皆さんも今度のW杯、是非ケニア女子代表チームの応援を!
ケニアチームの全ての練習ボールにはマジックで
「KENYA」ではなく「JICA」の文字。
日本チームより、とはいわないが、
某アイドルグループの歌と踊りよりは注目していただきたい!

頑張れ!ケニア女子!