先週受けた英語の授業を担当してくれたケニア人のジャスタスは、世界のことも、ケニアのことも日本のこともよく知っている。JICAのボランティアも長年教えているので、日本人のことも、とてもよく知る先生である。
そのジャスタスが授業の中で、「子供は4人産むのがベストだ。」と、私に言ってきた。
4人以上の子供をもつ家庭が少なくないケニア。その中で、何で特別に「4人」なのか?
理由を聞くと、
「ケニアの年齢別人口分布はきれいなピラミッド型をしているが(年齢が上がるにつれて少なくなる)
日本の場合は、つぼ型からコマ型に変わってきている。これは危機的状況だ。
だから日本人であるミハルは日本の未来のために最低4人は産まないと、国が滅びるじゃないか。
たとえ、自分の意志に反していても
日本のために子供を最低4人産むことが当然だ。」とのこと。
「責任も持てないのに“国のために4人産め”なんて無理でしょうよ。
そして、国のためっていわれても・・・・。
子供どころか、結婚もしていない人もわんさかいるのに。」と答えると
「今の日本は結婚したくないなんていってられない状況だろう。
日本のために結婚するんだよ。
それが愛国心だよ。」との結論。
十分に異国にいるので、異国を感じるのは当然だが、
これは以前「宗教。」について受けた衝撃と同じくらい、ケニア人のいう「愛国心」について衝撃を受けた。
先生が話した内容自体にも驚いたが、何よりそれらの言葉と態度に、一切迷いがなかったことに「強さ」というより「危なさ」を感じた。
ジャスタスにとっては、むしろ今まで出会ってきた日本人のほうが理解できないらしい。
日本人に「日本を愛していますか?」と聞くと、
大抵の日本人は「はい、好きです。外国に住んでから一層、好きになりました。」と答えるので、
「では、日本政府があなたに銃を渡して“他国を倒せ”といってきたら、あなたは日本のために戦えるのですね。」
と聞くと必ず「それは出来ない。」と返ってくる。
そこでいつも、彼らの愛国心とは一体なんなんだろうか。
愛しているなんて嘘じゃないか。と疑問に思うらしいのだ。
彼は小さい頃から学校で国への忠誠を固く約束する授業を毎週一回受けてきて、そこでは何度もその内容を全員で復唱してきた。
「ケニア国は他の何よりも上回る。
家族より、恋人より、個人より、何より優先すべきはケニア国である」と。
私「それは、本心か?」
ジ「ケニア人でも、特に男性は9割が本心からそう思っているでしょう。」
私「では、こういう時はどうする?
ケニア国が戦わなければならない相手が、あなたの友人がたくさんいる“日本”だったら。
例えば私が目の前にいたとき、あなたは殺せますか?」
私としては究極の質問として彼に問いかけたのだが、彼は実にあっけなく答えた。
ジ「それは、殺すだろう。個人の意志より、国に従うまでだから。」
私「あ、そうですか。」
「ガーン・・・。」とはならなかったが、
ショックを受けるとすればこうした教育が奪ってきたものの大きさにだろうか。
戦争となれば、悠長なことは言ってられないのかもしれない。
しかし、私だったらその相手が知人でなくとも考えるだろう。
ここにいる私と同じように、相手にも大事な家族や友人や恋人がいて、今まで育ってきた大切な故郷があり、守るべき祖国の文化や言語や慣習があるってことを。
もし私が物心がついてから毎週のように、ケニアへの忠誠を誓う授業と、神への忠誠を誓いに教会に行くことをそれぞれ1回ずつ集団で続けていたら、私の思想は今頃どうなっていただろうか。
そんな中で、個々の感性が育つ場所は残されているのだろうか。
日本でも数年前、教育基本法改正のときに話題になった「愛国心」。
愛することに定義などなく、その程度も人それぞれ。
服従させたり、義務づけたりするものでは決してなく、
国民全員が一定であることのほうが不自然である。
現在、日本から発信されている数多くの大震災のニュース。
それに対して寄せられる、懸命に復興活動に従事する人々の様子や、国内外からの支援の申し入れや、被災地を勇気づけるメッセージの数々。
確かにそこには日本への「愛国心」があふれているように私には映っている。
*あくまでも、ここに登場するものは全て個人の意見です。
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