2010年11月28日日曜日

遺体安置所。

金曜日に同期隊員3人が着てくれた際、病院内を案内した。
病院の裏ゲートに一番近い場所に、Mortuary(遺体安置所)がある。

病院内で亡くなった人だけでなく、ナイバシャの町内で亡くなった人の遺体が一時保存される場所。遺体はその後、棺桶に入れられて各家の近くの丘の上の決められた場所に土葬される。

裏ゲートから出入りすることもあるので、その存在はよく知っていた。
とにかく、今まで嗅いだことのないニオイが、毎回鼻を強く刺激してくるからである。

興味はあった。

なんとなく中を見てみたい気もしていたが、遺族が外で待っている時もあるし、幼い時に祖父のお葬式で遺体を見たことがあるが、知らない人の遺体を積極的に見に行きたいわけではないし、何より臭いが強烈だし・・・。

ということで今回、「同期隊員が3人も来てくれたんだし」という勢いを利用して見に行った。


4人の先頭に立ち、その小さい施設の中に入ってみると、よく知っているおっちゃんが作業していた。一気に安堵し、おっちゃんといつも通りの挨拶を元気に交わし、ズンズンと中に入っていった。

おっちゃんの顔しか見ていない、私。

そして、今日は日本の友達を3人も連れてきたんだよ~!と、後ろの3人を振り返ったら、みんな思ったよりも後ろにいて、何ともいえない顔をしていた。

というより、3人の顔に、「無理。」と書いてあった。

再び、前方を見る。

棚状の冷暗器の中にギュウギュウに押し込まれている遺体が目に飛び込んできた。

重なり方もバラバラで、顔がこっちを向いているものもある。

おっちゃんは十分に冷却装置の働いてないその棚に、遺体を詰め込む作業をしていた。

もっと奥の小さい部屋には、なぜか床のど真ん中に片足だけがポツンと置かれていた。

「確かに、無理だ。」

すぐに外に出てしまった。


たくさんの花やドライアイスに囲まれて、キレイな顔をしていた祖父の遺体。

との、ビジュアルの違い。


以前、マサイ族に嫁入りした永松さんにお会いした際に聞いた話では、マサイ族では生きている間にどれだけ名誉な役職についていた人でも、死が近づくと家の外に置かれて淡々と死を迎えて「ただの死んだ人」になって土葬されるということだった。


なぜ、こんな話になったのかというと、マサイの人は名残り惜しむということがない。
という話の延長から。


友人や恋人が遊びに来て立ち去るときに、見えなくなるまで手を振ったり、時よりこっちを振り返ってみたり、ということが皆無なのだそうだ。
終わったものとして、そこに感情をあれこれ乗せるということがない。


死についても同じく。


共に過ごしている他の動物と同様に、人間にとっても生・老・死は抵抗できないものだということを日常の中で感じている。
ライオンが老いていくことを嘆いたり、仲間の死を名残り惜しまないように。
あきらめではなく、自然の営みを受け入れている。

それは、日本に住んでいる私たちよりも確かに。



うちの病院の設備が十分に整っていないということもあるが、強い消毒液のニオイをかき消すくらいの死臭が、死ぬということは「もう、生きていない状態」なんだということを知らしめてくれた。

生まれた瞬間に、いずれは死ぬことも決まる。

生きている以上、いずれ私も死ぬ。

遺体になった人々と同じように。


では、

今を、生きているものとして。

今を、生きられるものとして。



出来ることは、いっぱいあるな。

しかも、今までとは違うことに気付ける、こんなに恵まれた環境で。



今日を生きられなかった人々のご冥福をお祈りすると共に、

様々なことを考えられたことに感謝して。





1 件のコメント:

sachie さんのコメント...

考えさせられたなあ-。
タイ人も、別れる人が見えなくなるまで見送る、名残惜しく手を振るということがない。
だけど、それはマサイ族とはまた違うものなんだろうなと感じる。

マサイ族には、もっと合理的で自然的なものが含まれていると思う。

日本でも、ずっと昔、死体を穢れたものとして死にそうな人を家の外に出す習慣があったよね。
でも、死を穢れとする見えないものへの恐れとも、またマサイ族の価値観は違うんだろうと思う。

すごい考えさせられた。
ありがとう、ガッツ。

「遺体安置所」「宗教」「死」はガッツ初期三部作やねえ。

本、出しんしゃい!