・テーブル拭き
・水くみ
・食器洗い
・おつかい
・赤ちゃんの世話
などなど・・・。
以上に挙げたものは、スラムに住む子供たちの家の仕事。
3歳にもなると、子供たちは家族の即戦力。
自分に割り当てられている仕事を、家族の一員として責任を持ってこなす。
“自分がいないと家族が困る”
自分が家族に必要とされていることを毎日実感しながら生きる。
7月29日、JICAの講義の一環としてNGO「チャイルドドクター」の宮田さんが主催するスタディツアーに参加した。
(ホームページアドレス http://www.child-doctor.org/)
(書き溜めた内容なのでとっても長くなります)
今回訪問したのは、約6,000人が居住するミトゥンバスラム。 スラムとは低所得者が住む居住地区のことで、公用地ではあるが上下水道や電気などの行政サービスは行き届いていない。家と家との間は人がすれ違うのがやっとの道幅で、たくさんある水たまりには雨水ではなく汚水が溜まり異臭を放っている。家が密集し風通しの悪い通路には多くの洗濯物が干されていて、乾燥しているケニアにいながら一歩入るだけで湿気を感じる場所。
トタン屋根、というよりも総トタン造りの家。床はなく、電気も窓もないので昼間でも室内は暗い。
そんな中で私たちは7人家族(父35歳・母28歳・子供5人)のお家を訪問した。 父親は仕事に出掛けて不在のため、インタビューを受けてくれたのは母親。 6畳ひと間の中に訪問者7名と家族6名の合計12名が入る。
そうなると必然的に各々の身体は常に密着する。
母乳をやる母親の横にはそれをみてすねる2歳の男の子、そのまわりにはお姉ちゃんたちが重なるようにして母親のまわりを離れない。みんなよっぽどお母さんが大好きなんだなぁ。と感じたが、日本人からみればそう感じる距離感も、ここではその距離感こそが通常である。
ロウソク1本あれば家全体に明かりが行き届く。
ここには家族の間に物理的な壁は存在しない。
家族の身体が常に触れ合っている中ですべての生活が営まれている。
ここでは、自分の好きな時間に食事をとることも、
自分の部屋に引きこもることも不可能である。
家族7人分の一日の食費は約120円。
この金額でどんな食事が取れるのか、私たちには想像することさえ難しい。
父親の月収は2,400円。これは家賃1,200円を含んだ1か月の支出4,000円を大きく下回る。3か月分の家賃を滞納しているこの家族には子供たちを学校へ行かせるお金は残っていない。
しかし、家賃のかかる家に住んでいるこの家族はまだ恵まれている方なのかもしれない。スラムにさえ住めない人々も多くいて、ケニアの貧困については話せばきりがない。
そんな母親の「夢」は、子供たちが仕事を持ち、お金を稼ぎ、スラムの外へ連れていってくれること。このまま繰り返される毎日の中では現状維持でさえも難しい。ましてや、いい変化は望めない。この状況を変えるかもしれない唯一の希望をこの子供たちは背負っている。食費も生活費も払えない中で5人の子供を持つ母親は、もう一人男の子が欲しいと語る。
日本では考えられない。
訪問に行ったこの日も、自分より小さい兄弟の面倒を見て、家の手伝いを率先して行い、無邪気に笑う子供たちは全員揃って家にいた。学校に通えなくても、この子供たちは家庭の中で自分の役割を持ち、幼いながらも自立しているように見える。というより、幼いながらも自立せざるを得ない状況にいるといった方が近いかもしれない。
しかし、実際に日本と変わらない水準の生活を送るケニア人達はみんな、英語をとても上手に話す。将来給料のいい職業に就くために、学校でしっかり教育を受けることが必要なのは明らかである。
「ケニアではお金がすべて。
あれば幸せ、なければ不幸せ。
生まれ変わったらケニア以外の国に住みたい。」
そう答える母親の言葉からは、直面せざるを得ない問題の大きさを痛いほど感じた。教育を受けられる者のみが収入のよい職業に就ける。そんな当たり前の循環から一度外れてしまった家族には一体どんな挽回の道があるのだろう。
取材の間、ずっと考えていた。
その中で元気に生きる子供たち、その笑顔は何とも心強い。
単純に力を感じる。
そんな強さが日本の子供たちや私たちに無いものとは決して思わない。
途上国の人の笑顔が輝いていて、先進国の人の笑顔は輝いていない、
というようなことも決して思わない。
違う国、違う状況に住む人同士を比較すること自体
意味のないことのようにも思えるし、人間のもつ底力や輝きなど、
どこの国の人もどんな状況の人もみんな等しく持っている。
しかし、環境が整っているおかげでその輪郭が見えにくい状況の日本人は
自分の存在価値を実感する機会が少ないように思う。
社会人になってもなお、自分の存在を会社や組織のコマのように感じることも少なくない。
「日本では毎年3万人を超える人が自殺をしています。
これについて、どう思いますか?」
こんな質問もしてみた。
しかし、長い沈黙が続いた後、スラムの人からみてあまりにも想像を超えているこの状況に対し回答はもらえなかった。
「命の尊さ」や「人とのつながり」をわざわざ語らねばならず、
それを語るのに、どこか難しさを感じる日本と、
約10%の子供たちが下痢などの治療可能な病気で命を落としていく中で
「命の尊さ」を肌で感じて知り、
幼い時から自分が生きられる喜びと
自分が必要とされている実感をもつスラムの人々と・・・。
自分が必要とされていることを、
実感しているかいないかの差は、
人間としてとても大きいように思う。
そして、これに国境はないと思う。
スラムの人々の生活が改善されるには、多くのお金と時間と人と国の力が必要となる。ケニアにある東アフリカ最大のキベラスラムには70~80万人が生活し、それに続く規模のスラムは多々ある。スラム居住者数が莫大なだけに、これらの問題の解消は国を変えるほどの力を秘めているように思えた。
それと同時に、日本人のまだ秘めている力に、大きな可能性を感じる。
そしてまた、スラムの存在自体についても考える。
スラムはある方がいいのか。ない方がいいのか。
日本のネットカフェ住民やホームレスの姿が頭をよぎる。
ケニアにきて一番大きく変化したことは、
ひとつのことについて考えられる時間が増えたこと。
考える対象が目の前に現実にある。
日本でもふと感じたことのある疑問を、
今は日常の中で悶々としながら考え続けている。
答えは多分、明確には出てこない。
でも、人生を通して向き合えるような新たな問題に
こうして直面している状況が嬉しい。
それが、今の喜びである。
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